聖書の読みかたには、斬新な思考が必要

今わたしは、新たに聖書の読みかたを考えつつあって、時間を取れれば、仮説を裏付ける根拠を探したい。
今回の読みかたは、全然むずかしくないにもかかわらず、歴史的な知識が必要となるため、図書館に通うか、何か文献を参考にするべき。


聖書の読みかたは、一通り、絶対に正しい読みかたがある、というよりも、何通りかの仮説を立てて、そのうちで最も有効と思われる説を採用する、という形が、一番理にかなっていると思われます。
それで、自分でも、何通りかの読みかたを考えて、それらを1つずつ、根拠を探して、正しいかどうかを検証してきました。
今のところ、もっとも仮説として正しい読みかたは、既に古いブログに書いたことがあります。


ただし、今回思いついた読みかたを含めて、すべてが正しいとは限らない。
最近のわたしは、ちょっとした思い違いをすることが多く、自分でも、聖書の読みかたも、どこかが間違っているかもなあ、と思うようになっています。


ということで、これからわたしは、もっとも新しい仮説を検証するために、時間が必要となります。
たぶん、ある程度の根拠は見つかるし、この読みかたが良さそうだと思われる可能性もある。
しかし、普通の日本人には、説明しても、雲をつかむような話というか、マユツバですね。
きっと、詐欺まがいのバカだと、思われると思います。


難しいんだろうなあ。
たしかに、誰もそんな説、はっきり唱えてる人、見たことないや。
どっかに、聖書を元にした映画とかに、ちょこっと翻案されていないかな?


さて、まあわたしの場合は、まず第一に、新約聖書の大部分がフィクションである、ということを主張していて、
そこが最も重要なため、些末なことは抜きにして、根本的な話だけ、書いてもいいのです。
だけど、それが普通の日本人には、相手にされないと思うな。
仮説というか、ただの思い込みだ、と一蹴されそうだ。



ということで、新約聖書の筆者たちは、ただ間違っていたというか、ウソを並べて真実のように振舞い、迫害も受けたかもしれないが、寄付などもたくさんもらって、本当に詐欺商法だったと思います。
その意味で、彼らが旧約聖書の筆者たちをあざ笑うことは、できない。


まず、旧約聖書は、そのような観点から読むべきです。
当時、西暦100年前後、「ヨハネの黙示録」が書かれた当時、既に、旧約聖書にはウソばかり書いてあることを知っているユダヤ人がいた。
これが、わたしの仮説。
それで、ここから、新約聖書が誕生した。


これで、旧約聖書について、ある程度の説明をしないと、新約聖書の成り立ちは、完璧には説明できない。
ところが、旧約聖書のほうは、本当に間違いだらけ、ウソだらけ、どこを取っても大ウソだ。
だから、旧約の筆者たちに直接聞かないと、どういう意味だか、真意がわからない。
しかも、当時、誰も知らないことを知っているフリをした預言者たちは、本当は、よその宗教などを真似しているだけで、どこにもオリジナリティは無い。


旧約聖書は、こういう具合に、ただちにウソばかり書いてあることがわかる人がいたとしても、それを主張して本を書くまでの人は、日本にはほとんど見当たらないため、無料記事に書けます。
これを真似する人は、もちろん、人から具体的に説明を求められた時に困るだけで、得することはない。
わたしはまだ、旧約本文を読み直していないから、こういう大まかな話しか書かない。


それに、新約はまだしも、旧約は本当にウソっぽくて、まともに論じるのは間違っている気がするし、日本人の手には負えないと思うから、わたしも書かないまま死ぬ気がする。


旧約聖書の成立時期は、たぶん、最も特定が難しい。
たぶん、本当に、誰もわからない。
だけど、かなり後代になって編纂され、こんにち見られる旧約聖書として知られるようになったというのが、わたしの仮説。
これは、自信はないが、新約聖書の筆者たちによる旧約の仮説を説明するくらいのことは、わたしは出来る気がする。


つまり、新約の筆者たちは、旧約のウソを利用して、ウソだらけのキリスト教を作り上げた。
だから、本当にユダヤ人は、嫌われる。
なにしろ、彼らの宗教は、誰も知らないことを知っているといって騒ぐもの、ではないのだ。
だから、「ソドムの滅亡」とかは、必要ない場面だと思う。
ああいう場面があるから、新約の筆者たちが、誤読したのだと思う、旧約聖書を。


わたしの旧約の読みのほうが、新約の筆者たちのそれより、正しい気がして、ならない。
ただ、旧約本文を読み返して、「あ、わたしの思い違いだった」と反省する可能性は、ある。
難しいから、旧約は。
わたしは、ヘブライ語で書かれた旧約聖書を少し読んだことがあるが、まだ読んだうちに入らない。
ヘブライ語そのものの成立時期が推定できたら、人々の旧約の誤読なども、研究が進むと思う。


わたしの仮説では、ヘブライ語は、かなり後代になってから作られた。
つまり、彼らは本当は、アラブ系の民族だ。
ここから、普通の人と、聖書の読みが異なってくるのではなくて、その前だ。
つまり、彼らがアラブ系かどうか、あるいはギリシャ系とか、エジプト系とか、考えうる説は、何通りもある。
しかしわたしは、あくまで、ヘブライ語を公用語とする人々が居住していた近辺に原住していた人たちである、と見る。
遊牧民ではないから、彼らは。


旧約聖書は、ウソばっかり書いてあるから、日本の『古事記』、『日本書紀』と変わらない。
これは建国神話を捏造する物語。
だから、日本人には、比較的わかりやすいと思う。
ギリシャ神話なども、とんでもない大ウソを重ねて作ってあり、あれは広く西洋の神話となった。
のみならず、エジプトなど中東諸国にも影響を及ぼした。
ユダヤ人は、だから、まず第一に、ギリシャ系の思考回路を持つ、現地の住民たち、だったと見る。



わたしの仮説は、だいたい、大まかで、後で間違ってるなあと思ったことは何度もある。
だから、上記は、あくまで仮説である。
ただ、新約聖書のほうは、かなり読みかたがかたまってきたから、これ以上は、読みかたは、ズレてこないと思う。
つい先日に気づいた、新たな仮説については、既に諸説ある中の1つではなく、まったく独自の説だと思う。
どうして、誰も聖書の本に書いていないのか? というような、そういう読みかただ。
わたしが聖書の本を書かないのも、あまりにも既存の説とかけ離れているから。
難しいかもしれない、日本人には、読めと言っても、読んでもらえないかも。


ユダヤ人がウソつきなのは、周知だとは思うが、
ここから先は、新約の筆者のひとり、ヨハネによる仮説を検証していくほうが良い。
彼は、今わたしが考えている、旧約の成立時期についての仮説を、自ら打ち出して、キリスト教を作り上げた。
これは、わたしが考えている中で、最新の新約の仮説だ。
たぶん、合っている。
こういう、ヨハネの考えていたことは、なぜか、よくわかる。
不思議だ。
旧約聖書は、まだ読み直してないが、もしかして、旧約を読み直したら、ヨハネのように、筆者の考え方が、わかるようになるのだろうか?
期待はしていない、旧約は難しそうだから。



とりあえず、図書館で借りた本のうち、映画と旧約聖書との関係を説明した本を、昨日ざっと読んでみた。
もちろん、しばらく読み直していない旧約のことだから、新鮮な感覚で読んだ。
しかし、旧約と映画との関係を論じても、映画そのものの解釈は、ちょっと関係ない気がする。
たとえば、「羊たちの沈黙」に出て来る旧約の一節。
どうも、やっぱり、あんまり作品の解釈には、関係なさそうだった。


それでも、わたしが覚えていない旧約聖書の聖句が、本のあちこちに書かれていて、これは当分、旧約を読み直さないと、聖書の話は、きちんと書けないな、と判断した。
ちょっと、がっかり。
新約聖書の話なら、今すぐ書けそうなのにな。


ユダヤ人には悪いが、ヨハネは、ユダヤ人そのものをバカにしていた感じだ。
でなければ、あそこまであけすけに、ユダヤ人の起源みたいなものを、バカにしたり、しないだろう。
ヨハネはむしろ、旧約聖書の筆者たちの真似をしているのではなく、彼らをあげつらっているだけ、という感じがする。
何しろ、ヨハネが生きていた当時、彼が直感で読み解いただけなのか、あるいは、旧約の秘密を知る一部のユダヤ人、あるいはその直系みたいな人が、まだ実在していたのか?
とにかく、ヨハネの旧約の読みかたは、わたしには、わかる。
だけど、それが正しいのかは、わからない。


やっぱり、「ヨハネによる黙示録」で、もっとも重要な点は、筆者ヨハネが、旧約聖書の筆者たちを笑っている、というところ、ではないか?
彼は、頭は良かったに違いないが、どうして、もっとまじめに、普通に、その話を人々にしなかったのか、不思議だ。
やはり、わたしと同様に、彼の旧約の読みも、直感的なだけで、人に説明するのは難しかった、のだろう。
しかしやはり、ヨハネがいなかったら、わたしは、旧約の読みかたそのものに、気づかずに死んでいた。
だから、ヨハネがわたしの師匠であることに、変わりはない。
ただ、当時、キリスト教団には、ヨハネの秘蔵っ子というか、彼の一番弟子、みたいなのは、いなかった。
それというのは、もっとも博識で弁の立つ使徒パウロですら、ヨハネとは、天と地ほど違う。
ぜんぜん、ヨハネに歯が立たない。
もう、老人と生まれたばかりのひよっこ、くらいの差はある。
ヨハネは、誰にも、自分の旧約聖書の読みかたを、丁寧に説明していなかったのだ。
やさしいのか、バカなのか、意地が悪いのか、わからない。
ただし、彼らは皆、旧約聖書に秘密があることは知っていて、しかも、ヨハネについていっていた。
これが重要だ。


ヨハネは、カリスマ性は、あった。
でなければ、こんにちのような、巨大なキリスト教は、成り立っていない。
だから、ヨハネがイエスの位置に来るというのは、もはや、常識になろう。
わたしが、新説を唱えているかは、知らない。
しかし、わたしがある程度説明すれば、「そういうことなのか」と、まさに、目からウロコ、という感覚で受け入れる人は、出てくると思う。
キリスト教は、そのようにして、大きな教会となった。
ヨハネは、だから、ユダヤ人の秘密を自力で読み解いた、という、この功績が残るのみ、だ。


だから、彼よりも何世代か前のユダヤ人による陰謀というか、策略。
これが、今のところの、わたしの旧約の仮説。
ところが、ヨハネは、大して正しく旧約を読めていない(と思っている)ため、ヨハネをどこまで信じるか、も重要。
ヨハネはヨハネで、ただの人間だった。
これは、正しい。


たとえば。
わたしは、かつて、「ベニヤミン族の犯行」などについて、何度かブログに書いたことがある。
この場面、簡単なほうだ。
しかし、誰も正しい読みは、出来ていない。
これは、確実だ。
それというのは、あのヨハネですら、まともに、いや、全く、新約聖書のどこにも、この場面の正しい読みかたについて、ほのめかすことすら、していないのだ。
あの、自慢しぃの、ヨハネですら。


これは、無料記事に書く内容ではない。
ただし、漠然としか書いていないから、誰も真似できないし、理解もしにくいだろう。


さ~て。
時間があればなあ。
まあ、要するに、「ベニヤミン族の犯行」とか、その辺の場面から、読み解いていったら、ブログに少しずつ書けるかもしれない。
しかし、膨大な旧約聖書を、一通りでも読み直さないと、マズいしな。
これは、死ぬまでに、本当に時間ができるのか?
という、問題に帰する。


ヨハネのように、ある程度時間があり、権威も権力もあった、そういう人でないと、やはり、あのような難しい書き方は、不可能だったと思う。
彼は、だから、恵まれていた。
もともと金持ちの息子だったのかも、しれない。
知識も教養もあるし、ヘブライ語もギリシャ語もできるし、よその宗教なども詳しいし。
だから、わたしは、あのオッサンは、ただの教師でいればよかったのに、と思う。
難しい聖書なんか書かずに、ただ、旧約聖書の解説書でも、書いて死ねばよかったのに、と。









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