映画「クリムゾン・リバー」:原作と映画版の違い

今日は、とってもこの「クリムゾン・リバー」について、何か書く気分ではありません。
だけど、この作品の情報を集めるのに、グーグルで調べても、大したことがわからずに困った経験から、少し、備忘録のように、映画と原作との違いなどについて、書き留めておきます。
どこかで、グーグルで調べるような人に、このページが役に立てば、いいな、と思います。


映画版では。


クリムゾン・リバー
デラックス版 [DVD]


最初から、猟奇殺人事件の第1の犠牲者の死体が発見され、フランスのピエール・ニーマンス警視が、特別に捜査のために現地に派遣されます。
場所は、グルノーブルの近く、イゼール県の小さな大学町、ゲルノン。
ベルドンヌ山塊大尖峰のふもと。

現地のゲルノン大学病院にて、ニーマンス警視は、検視医による説明を受けながら、被害者の死体を、直接見る。
その死体の左右の眼球は、犯人によって摘出されていた。

ニーマンスは事件の手がかりを得るために、すぐに、シェルヌゼという地元の眼科医をたずねる。
そこの待合室で、盲目の少年が連れた盲導犬に吠えられ、凍りつくニーマンス。
彼は、シェルヌゼ医師に、「犬恐怖症」だと説明する。
眼科医は、遺伝性疾患が専門。
ゲルノンでは、近親婚が続いたため、遺伝病が、眼病が増加した、という。


この眼科医は、後にゲルノン大学で秘密裏に行われていた、ある陰謀に加担した疑いにより、連続殺人犯に殺害される。



原作小説では。


クリムゾン・リバー
(創元推理文庫)


冒頭、サッカースタジアムで、外国チーム同士がパリで一戦交えるのに、大勢のサポーターを囲い込むため、警官を動員。
そこへ暴動が起こり、作戦を指揮するピエール・ニエマンス警視は、興奮を抑えきれず、殺人を犯した外国人サポーターをめった打ちにしてしまう。

折しも、ゲルノン大学のある町で、猟奇殺人事件が発生。
捜査にあたり有能な人間が必要とのことで、ニエマンスは現地に送り込まれた。

検視医はまだ到着しておらず、ニエマンスは死体を見るだけ。
死体の眼球が摘出されていることも、まだ誰も気づかない。

司法解剖の結果を待つ間、死体の第一発見者である、ゲルノン大学の若き女性教授、ファニー・フェレイラに会う。
さらに、全裸で胎児のように丸められ、縛られていた被害者の妻に会い、手がかりを得ようとする。

その後で、検視医から報告があり、死体の眼球が抜き取られていたことを知る。
司法警察グルノーブル本部の若き警部、エリック・ジョワスノーが、子供の眼病治療研究所に、捜査に行かされる。
理由は、ニエマンス警視が、犬が嫌いなため。
研究所には、盲導犬がいるに違いない、とニエマンスが主張、ジョワスノーに代わりに行け、と命令するのだ。
しかしこの時、ニエマンスの判断は、間違っていた。
大きな専門施設で設備なども整っているため、この眼病治療研究所には盲導犬がいない。
その上、このジョワスノーは、研究所の後に捜査に向かったシェルヌセ眼科医の家で、この医師に殺害されてしまう。
眼科医は、そのすぐ後で、連続殺人犯に殺害されてしまう。



原作では、ピエール・ニエマンス警視が猟奇殺人事件の捜査を少しずつ進める上記の間にも、平行して、若い警部による、別の事件の捜査が描かれる。

警部の名前は、カリム・アブドゥフ。
アラブ人二世の若者、29歳。
捨て子で、孤児院で育ち、不良少年となるが、高校を出て、警官になる。


また、ニエマンス警視も、子供の頃から独立心旺盛で、自分から寄宿学校を希望し、親元を離れる。


二人の警官の生い立ちは、原作にしか書かれていない。
映画版では、猟奇殺人事件に絡んだ捜査だけだ。


ピエール・ニエマンスのほうは、精神科医のカウンセリングを受けている、という描写がある。
これも原作だけである。

大学入学資格試験(バカロレア)に優秀な成績で合格した十七歳のニエマンスは、徴兵検査を受けたのち、士官学校入学を希望した。けれども入隊は無理だと軍医に言い渡され、その判定理由を告げられたとき、若きニエマンスは、思い知らされたのだった。心に巣くう苦悩の影が、彼の野心を土台から崩してしまったのだと。そう、おれの運命は、血まみれの長い廊下のようなものだろう。途切れなく続くその果てでは、犬たちが闇に向かって遠吠えをしている……

 ほかの若者たちなら、精神科医の判断をおとなしく聞き入れ、あきらめたことだろう。だがピエール・ニエマンスは違った。彼は執拗に肉体の鍛錬を続け、ますますたけり狂った。軍隊に入れないなら、別の戦いを選ぼう。それは路上の戦い、日々繰り返される悪に対する戦いだった。おのれの体力と気力の限りをつくし、栄誉も軍旗もない戦争に打ち込むのだ。こうしてニエマンスは、警察官になることにした。

(中略)

そうとも、おれは誇り高き兵士にも、勇猛果敢な士官にもなれはしない。だが一度食らいついたら離れない、狂犬のような街の戦士となってやろう。そしてアスファルトの暴力と激怒のなかに、自らの恐怖心を沈めるのだ。

(『クリムゾン・リバー』 ジャン=クリストフ・グランジェ著、創元推理文庫、p44-45)




上記引用した中に、何度か、「犬」という単語が登場する。
ニエマンスは、自らを「狂犬」と呼ぶように、彼は、自分は人間というよりも、犬のような運命を背負っている、と感じている。
その直後に、通りすがりの犬に吠えられ、恐怖を覚えるニエマンス。


この犬は、飼い主らしき男に、こう呼ばれる、「クラリス」。
この「クラリス」は、米映画『羊たちの沈黙』(トマス・ハリス原作)に登場する、クラリス・スターリングを連想させる。


こういう具合に、この作品では、「犬」は、警察やら、FBIやら、といった、殺人事件を追う立場の人たちを象徴しているかのようだ。


しかし、ピエール・ニエマンス警視は、彼自身が思うよりも、ずっと誉れ高い、人々の尊敬を受けるべき存在だと思われていた。


「すぐにわかりましたよ。ピエール・ニエマンス。元花形エリート警察官。元犯罪取締まり班警視。殺人犯、麻薬密売人の元追撃者。」

(『クリムゾン・リバー』 ジャン=クリストフ・グランジェ著、創元推理文庫、p25)


「…ただわたしは、スターだからって崇めたてまつりたくなかったもので。何しろあなたは若い警官たちが夢見るアイドル、《スーパー・デカ》ですから。」

(『クリムゾン・リバー』 ジャン=クリストフ・グランジェ著、創元推理文庫、p25)




ところが、初対面でニエマンスをこう評した、エリック・ジョワスノーという若い警部は、犬嫌いのニエマンスに命じられ、眼病関係の捜査に当たった結果、地元の眼科医に殺害されてしまう。


敏腕で、殺人事件を素早く解決するはずだった、ピエール・ニエマンス警視。
彼は、自分がもっとも有能で、もっとも理解しているはずだった、この事件の捜査において、致命的なミスを犯し続け、ついに、自ら暗闇に陥ってしまう。


これはただの形容ではなくて、現実に、彼は殺人犯に車で追われ、事故って暗闇に放り出され、ケガを負うのである。
そうして、彼のケガを介抱してくれた女性が、殺人犯で…という、実に痛いエピソードが続いて、最後には、この女性と抱き合ったと思いきや、彼女に刺されて、殺されるのである。

そうして、二人とも、川に落ちてしまい…二人とも、血を流しながら…


「クリムゾン・リバー」は、こうして、彼らが流した血によって、さらに深紅の色を深め、真っ赤な血の色に変わる。
「ヨハネによる黙示録」の、次の聖句を思い出す場面である。

16:4 第三の天使が、その鉢の中身を川と水の源に注ぐと、水は血になった
16:5 そのとき、わたしは水をつかさどる天使がこう言うのを聞いた。「今おられ、かつておられた聖なる方、/あなたは正しい方です。このような裁きをしてくださったからです。
16:6 この者どもは、聖なる者たちと/預言者たちとの血を流しましたが、/あなたは彼らに血をお飲ませになりました。それは当然なことです。」
16:7 わたしはまた、祭壇がこう言うのを聞いた。「然り、全能者である神、主よ、/あなたの裁きは真実で正しい。」

(「ヨハネによる黙示録」第16章、新共同訳)




「クリムゾン・リバー」という言葉は、
原作では、殺人事件の被害者の一人が生前残した、謎めいた走り書き、として登場する。
映画版では、殺人事件の被害者の一人の部屋に置いてあった、分厚い本の表紙に書いてあった。

我らは支配者にして奴隷
我らはあまねくありて、いずこにもなし。

我らは測量士
我らは緋色の川(クリムゾン・リバー)を制す。

(『クリムゾン・リバー』 ジャン=クリストフ・グランジェ著、創元推理文庫、p245、p334)




「我らは緋色の川(クリムゾン・リバー)を制す」


この謎の言葉は、連続殺人事件の犯人の動機となった、ある陰謀──
優生学に基づく。
ゲルノン大学で、優秀な男女を結婚させ、優秀な子供を作る、という。
それだけなら、まだ陰謀とは言えない。
この優秀なはずの子孫が、近親婚が続いた結果、遺伝病に襲われ、大学の外の子供たちと、遺伝病にかかった子供たちをすり替える、という、アホみたいな策略が行われ、その被害者となった一人の少女が、憎しみによる復讐を決行、この猟奇殺人事件を起こしたのであった。


この少女は、原作では、最初は少年として登場する。
だから、原作と映画版では、あまりにもかけ離れていて、同一作品とは、もはや言えない。
たとえば、少女の母親が、原作と映画版とでは、まったく別人になっている。
こういう、些細な繰り返しで、この作品は、映画になった途端、もっとつまらないものになってしまった。


「クリムゾン・リバー」は、原作を読んだらば、ただちに、最後に殺人犯と、その犯人を追った警官とが、二人で一つになったかのようになった瞬間、二人とも血を流して川に落ちて死んでしまう。
この、二人が血を流して死んでいく、川をこそ、「クリムゾン・リバー」というのだろうと、読者ならば、そう思う。
だから、この作品は、原作にしか登場しない「川」を求めて、どこか空疎な、意味不明な映画となった。
これは、殺人犯の母親役が、まったくすり替えられてしまった時点でも、どこかがおかしいな、という、そういう、どうしようもない作品だと思う。



殺人犯は、ほんとうは二人いて、二人とも、顔がそっくり、というのが、この作品のオチ。
知っていましたか?
双子は双子でも、顔も、指紋も、そっくりな、一卵性双生児の女ふたり。
彼女たちが、過ちを犯して、被害者として行動するうちに、連続殺人犯となる。
これが、作品をもっともバカげたものにしている一因。
それは、一卵性双生児とはいえ、生まれた時から離れて育てられた二人が、互いに憎しみも覚えず、ただ仲良く、殺人事件を起こすなんていうのは、ありえない。
ただ、どうかしているというよりは、この原作者は、双子の生態を知らない、っていう。
つまり、普通の二卵性双生児でさえ、時と場合によっては、憎み合うのだから、この作品では、一卵性双生児である彼女たち自身が、もっとも激しく憎み合い、殺しあう、という、そういうストーリーがあっても、おかしくない、というか、むしろ自然だと思えた。
実の親の元を離れて一人だけ大学の教授の娘として育てられた少女が、突然、顔がそっくりな少女を知り、自分たちは双子であると気づき、そこからが問題。
だから、どこかがおかしい、という作品だ。


というわけで、今回は、自分の個人的な感想が、もっともつまらないため、無料記事といたしました。
ただの夢想のようなストーリー、どこかがおかしい、と繰り返しつぶやいてしまう、そんな作品。


たとえば。

眼病ならば、原作には白内障などが具体例として挙げられていたが、氷河などに覆われた、真っ白の世界、紫外線の反射がキツい場所では、白内障というのはもともと起こりやすいと思うが?
これは、中東などの砂漠地帯でも同じだ。
閉鎖的な地域で起こるというが、実は、紫外線が強く、目を傷つけやすい地方では、白内障の罹患率は、高いと思う。


強烈な紫外線、太陽に焼かれるのは、ただ熱によるだけでなく、目も傷つけられる。
人間は、そのようにして、自ら盲目となる。


映画版では、殺人犯の少女の母親役は、白内障のようで、ほぼ盲目状態のようだった。
しかし同時に、親から子へとうつる遺伝病として、眼病について説明があった。
なぜ、双子の娘たちは、まったく目を患っていないのか?
不思議だな。


こういう具合に、わたしが一人でつぶやいて、なんかおかしいな? と言っているだけ、という感想でした。


映画の感想は、この後、しばらく書かないと思う。
なんか、疲れたというか、拍子抜けした。
今度、何か書くとしたら、吹替え版ではなく、ちゃんと字幕版のある映画について書きます。
目だの、耳だの、ファシズム入ってる感じの描写が含まれる「ヨハネによる黙示録」を読みますと、どうも、「目が見えないって、ただの白内障でしょ」 とか、言ってしまうわけです。
それで、後天的に、事故で聴力を一部失う、といった人は、「聞く耳はあっても、聞こえないな。」
と、こう返す。
黙示録の世界は、こうして、実現するように見えて、崩れていく。


見えない者は、笑われるがよい──

という、黙示録では、この場合、双子の娘の、目の見えない母親が、最もバビロンのように、あざ笑われる。
ところが、原作では、この修道女、双子とはあかの他人で、双子の母親がある事情により頼みごとをするだけの関係。
どうなってるの?
そう、この映画版を製作した人たちは、そこまで、原作者の意図を台無しにしたのだ。
それでも、原作者がこの映画の脚本に参加しているというから、驚きだ。
なんというか、まったく別の作品になってしまっている。
というか、あっても意味が無さそうな。


原作では、もちろん、筆頭の女バビロンは、「人間であって、獣である」のピエール・ニエマンス警視ではなく。
猟奇殺人事件の犯人である、双子である。
彼女たちは、二人とも、警察に殺される。
二人とも、それぞれ、親愛の情を抱いて彼女たちを保護するかのように殺人事件を捜査していたはずの、二人の警官によって、殺される。
その一人のニエマンス警視だけが、犯人である双子の片割れと、相撃つようにして殺される。


川は、このようにして、死体を流すだけの、ただの水の流れと化す。
どこにも紫の流れはない。
すべては、彼らの心の中に通ったはずの、偽の愛のようなもの、偽りに満ちた人生、生きているうちに、彼ら自身が何かがわかればよかった、見えればよかったのに──という意味での、緋色の川。


見えない者は、このようにして、恥をかく。
「川を制する」者は、自分の目の視力を失うことなく、また、「人の思いや判断を見通す者」(黙示録2:23)である。
それは、本当は ── である。(これは、ないしょ)
という、オチ、でした。

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Theme: 映画感想 | Genre: 映画
Category: 映画と聖書


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