この夏は、汗は出た、しかし暑くなかった。

といいつつ、今も、おなかに汗が出ている。

この国、イザヤ書の話とか、まだ、わたしは書いてない。
書きたかったのは、むしろ、旧約聖書の本文の解釈などだ。
そこで、わたしが書きたかったのは、むしろ、聖書学などの既存の学問を否定する読み方。
簡単な話を難しく書くのは簡単だが、難しい話を簡単に書くのは、難しい。
しんどい。
で、わたしはしばらく旧約聖書を読んでないが、
それよりも、上述のような理由により、
聖書の話を、避けてきた。

イザヤ、エレミヤ、ダニエル、エゼキエル。
新共同訳の版による旧約聖書の、大きな書簡の預言者たちは、「大預言者」と呼ばれる。
しかし、彼ら全員、ただの嘘つきだ。
これが肝心だ。
つまり、今、新約聖書を本当の話だと思って読んでる人、いないでしょう?
それと同じ感覚で、旧約聖書の本文を読んでみないと、わたしが言っている意味、わからない。

そこで、クリスチャンたちに問う。
わたしはいま、何語で話を書いている?

日本語だ。

これが肝心。

言い難い話でもなんでもないのに、わたしは話が通じにくいらしい。
なんというか、簡単に書いても、読者にとっては、意味不明、となる。
それが簡単に書いているつもりであっても、だ。

ここで、例を挙げてみる。

先日から、何度か言及した、NHK大河ドラマ「直虎」の話だ。

ここから、先日のブログの記事を読んだ読者に向けて書く。
彼らは、既に、わたしが「直虎」について書いた記事を、読んだ、ということにしておく。

映画は、別だ。
たいてい、最初から最後まで、通して鑑賞したことのある作品についてしか、言及したことが無い。
ところが、この「直虎」、わたし、先日はじめて、ドラマの最初から最後まで通して観た。
一度も、ちゃんと観たことがないドラマだ。
こんな話、ムダだろう。
つまり、読者はここで、「それなら、そのドラマについては、ほとんど何も知らんヤツだな」と、わたしを決めつける。
しかし実際、その通りである。

こんな話、バカでも書ける。
ただ、映像に限らず、ある作品の解釈についての文章について、だ。
わたしは、彼らが何をやっているか、ある程度理解した、ということにして、少しこのドラマについて、感想文みたいなのを書いてみる。
これから。
それを読んだ人、むずかしいかどうか、自分で考えてみて。
わたしが、これから書く文章、下書き無しだし、ドラマの基礎知識なしだ。
ちょっとハンディ大きすぎるが、いいだろう。
これで、わたしが過去にどんな話をどんな風に書いてきたか、知らない読者も、あらかた、推測できるようになる。
このドラマを実際にテレビなどで観たことのある人なら、なおさら、である。

映画である場合は、こんな感じ。
「直虎」は、実際に起こった史実を、てきとうにひっくり返し、捏造して、視聴者をかく乱する目的で制作している。
これは、事実というよりも、筆者の私感である。

連続何十回と続くテレビドラマの放送途中の、しかも、放送済みの回もほとんど観たことのないドラマの場合は、次のように書く。
「直虎」は、知らない人が知らない人に向けて、てきとうに、作者たちが自分の恣意的な目的でもって、史実とは異なる事変を連ねて、視聴者にたずねる目的もなく、ただ放送するだけのために、制作したものである。
これは、未完のドラマでもあるため、筆者の推測にすぎない。


ところで、先日わたしは、こう書いた。
「化粧をほどこして、死に顔をごまかす」。
今週の日曜の夜に放送された「直虎」についての話である。

この化粧をほどこした死に顔とは、井伊虎松という、のちの井伊家の当主となる男の子、かれの身代わりとなって殺害された何者かの首のことである。
首といっても、テレビの映像には、出てこない。
ただ、首がそこにあるのだろう、というような、容器だけが、映される。
映画なら、もっと怖い演出をするだろう。
なにか、淡々とした、どこにもない首が、ただ置いてあるだけ、のような雰囲気のなか、
誰も知らない男の首に、似つかわしくないほどの厚化粧がほどこしてある、
それだけが推測されるのである。
出演者たちの、セリフによって。

彼は、身分もわからぬ、おそらく子供である。
そうして、誰も知らない、この男の子、知られてないがゆえに、ヨハネ黙示録の「バビロン」ではない。

ところが、ここで恐ろしい反転が起きる。
小さい頃から、この性格、どうか許してくださいな。
いや、わたし、こんな難しい話、書きたくないの。
ただ、韻文調で、簡単に書きたい。

そこで、こうだ。

わたしはわたし、あなたはあなた。
寝台の中にあるのではない、その首は、竹で作られたと思しき、大きなわっぱのようなものに入っていた。
ところが、この首、誰もそれを愛していない。
一瞬、その場が凍り付く、彼らの愛した、虎松という男の子、の首、かもしれぬゆえに。

その瞬間、尼の装束に身を包んだ直虎が、泣きながら、その首に覆いかぶさる。
意味不明のお経を口ずさみながら。
しかし、誰も怖がらない。
ただ一人、彼女の身内である坊主が、こう言う、「母親ならば、抱きしめたいであろう」。
気持ちの悪い厚化粧をほどこした、だれとも知れぬ首を、である。

実際は、彼らはみな、彼らの知る、明るい幼い男の子の首ではないことを、わかっていた。
だから、彼らはみな、心の底で、こう言う、
「この首は、虎松ではない」。
そして、かの殺人者、小野政次は、こう言う、
「虎松君は、疱瘡を患っておりましたので…」
彼は、自ら手を下し、刃物で切り刻んだ、その首の化粧のゆえんを、こう言う。
顔色ひとつ変えずに。

みな、彼を非難しない。
なぜなら、非難されるべきは、この場にいない、今川家の主君どもだから。
理不尽な要求をつきつけ、井伊家を困らせてきた、今川の人々が、彼らの敵である。

しかし、彼らはみな、内心、こう言う。
「この首は、誰も知らない。
しかし、いずれは、この首を切った者の首となる」。
いわゆる人間は、こう言う、
「いつか、この首を切った者は、みずから、このような首になる」。

イエスは、斬首刑ではなかった。
ただの磔刑(はりつけ)であった。
もう、ご存じであろう、ヨハネ黙示録の「二人の証人」の場面には、そのような首の話は、どこにも書かれていない。
だから、この場面、「二人の証人」の処刑の場面には、関係がない。

ところが、人々はこう言う、
「人間は、いずれは死ぬ」。
だから、彼らはこう言う、
「人間は、首をはねられた者は、いずれは復讐する」。

そうして、この、無名の子供の首は、いずれは、その横に座す、男の首となる。

イエスは、二人の証人ではない。
だから、彼らは皆、聖書を読み間違う。
ところがみな、「自分は聖書を読める」と言い張る。
これは、聖書の物語。
恋愛でも、戦国の話でも、何でもない。
ただ、違うのは、そこにいるのは、キリスト教徒ではなく、磔刑の人間は、どこにもいない、ということ。

イエスは、磔刑で死んだ。
そうして、二人の証人もまた、主イエスと同じ、磔刑で死ぬことになっている。

この解釈、まちがっているだろうか?


映画について書く場合は、こうなる。
「こうして、この場面は、既に死んだ、首をはねられた男の子の、復讐の前ぶれとなる」。
しかし、ドラマの場合は、こうなる。
「こうして、この場面は、首をはねられて死んだ男の子の首が、いつの間にか、横にいる、彼を殺した男のものとなると、預言したものとなる」。

どこが違うのか、というと、
映画では、ただ復讐を意味するのだが、
ドラマでは、この先のあらすじを、筆者が知らないため、ただ、いずれ、この小野政次という人物が、「獄門」という、斬首のうえ、さらし首、という極刑に処せられる、という、史実のみを知っているため、こういう、不可思議な書き方となる。
いちども観たことのない場面を、先走って書くため、少し奇妙な書き方となる。

映画では、わたしは、ちゃんと最後まで観た作品には、はっきり言及する。
このテレビドラマは、先日ちゃんと観ただけで、その前の話はよく知らないし、その先も知らない。


さほどの例ではないが、難しくもない、この話、理解いただけたでしょうか?

簡単な話ですが、言い回しが違う。

なぜ、男の子の首が、いつか必ず、彼の首をはねた男の首となる、というのか?

というか、この場面、首だけの変わり果てた姿となった男の子を、井伊直虎が抱きかかえる、という、どことなく不思議な場面。
彼は、だれの子供でもない、見知らぬ男の子だ。
だが、井伊直虎は、この首を、養子である虎松という男の子の首であるかのように扱う。
人々はみな、それを見て、混乱する。

もっぱら、映画の作品であるならば、と比較するのではなく、
ただ、この場面の解釈を書くために、この記事を書き始めたのですが、
最後に、この場面、言い当てるかどうかは別として、彼らの不愉快な運命を予期させるものとして、有名になればいいのに、
どうも、そういう気配が無さそうで。
やはり、ドラマと映画とでは、作りが少し、違うような。

簡単に、次に来る運命が、わかりやすく示されていれば、もっと凝った作品に見えるだろうにな。


男の子は、だれとも知れない、貧しい男の子だったに違いない。
しかし、彼の首をはねたのは、立派な成人男子で、武士で、しかも、身分の高い、金持ちだった。
この差は、何だ?

人間は、しかし、ただ、虎松がそこにいない、というだけで、ホッとする。
違うのに。

映画は、ドラマは、と区別せずに、こう書くが、
神は、人間はおろかなものだと、そういうために、こういう場面を作られる。
男の子は、だれであろうと、だれかの子供である。
彼は、理不尽に命を奪われた。
その命は、だれが穴埋めする?
やはり、直虎ではなく、彼の首を直接はねた、小野政次、という男であろう。

しかし、彼らはみな、人間として、意味が違うのに、こう言う、
「この首は、いずれは小野政次の首となる」。
つまり、彼らは、そこにいる首が虎松のものでないと知ったうえで、
「この首が虎松のものでないと知られれば、小野政次が、その責任を問われることとなる」。

これは、わたし個人の勝手な解釈である。
つまり、ドラマの製作者は、こういう、はみだし者の視聴者の差別や偏見を超えて、
もっと普遍的なドラマを作ったほうが、賢明である。

しかし、わたし個人は、こう言う、
「虎松の首は、名もない男の子の首となった。
そしていずれは、小野政次の首となる。
しかし小野政次もまた、誰かの首に復讐することとなる」。

わかりにくい表現でしょうが、だいたい、こういう言い方です。
わたしのは。
それで皆さん、読者さんがいるとして、
わたしはこれまで、こういう書き方を、何度かしてきました。
読めた人、いるか知りませんが、
わかりにくいというよりも、ただ、解釈が不明な書き方で。
だけど、頭がいい人なら、簡単すぎる書き方だと思います。
知らない人には失礼かもしれないが、
頭を使った読み方を学べば、さほど難しい書き方ではありません。

しっかり、聖書を読むと、簡単なようで難しい、というのは、ありえないのが、わかるようになります。

上述の話、「二人の証人」の場面に即して解釈します。

小野政次は、主君である今川家から、自らが仕える井伊家の男の子、虎松の首を所望された。
いちおう、知らない男の子を殺して、その首を持参する。
しかし、誰もその子を知らない。
小野は、変わり果てたその男の子の首に、無粋にも、厚化粧をほどこした。
新約聖書ヨハネ福音書に登場する、顔を覆った死人のラザロのように。

ラザロは、生前、重い皮膚病で、顔を布で覆って隠していた。
これは、だれが彼かわからないように細工するためではなく、病気のため、である。
しかし、聖書では、別の解釈が可能である。
それは、その場面に登場するラザロは、死体が生き返って、墓から人々の前に姿を見せるのだが、
その顔は、まだ布で覆われていて、誰も見ていない。
イエスは、その横で、彼の復活を祝うことになっている。

この場面、「直虎」の、虎松の代わりの首の場面とは、似ても似つかない。
ただ、死体の顔が誰だかわからない、この一点のみが、共通点である。
しかし、この共通点が、どこからどこまで本当のことかわからない、この歴史ドラマにおいて、
重要な意味を持ってくる。

この、正体の知れぬ男の子の首、イエスではない。
ラザロではない。
ただ、いずれはこの首をはねた小野政次が、このように首をはねられ、人々の前にさらし者となる、ということだけ、史実を知っている人は、知っている。

そうして、それを知る人は、ひそかに、小野政次の死をわらう。
みんな、いずれは死ぬ。
そうして、彼らはみな、それぞれの知人に、その死をわらわれることとなる。

因果応報だ。

この話、誰も知らない。
しかし、この解釈こそが、ヨハネ黙示録の、「二人の証人」の処刑と復活の場面において、もっとも重要なものとなる。

だから、死んだ二人の証人を、「死んだ、死んだ」と笑って祝っていた彼らがみな、大地震で死んでいく。
大地震でなくても、人々はいずれ、死んでいく。
かれら、過去に、どれだけの人を、死んだといって、笑っただろう?
しかし、誰もそれを知らない。

人間の死など、その程度のものだ。
虎松が、いずれ成長して、小野政次たちに復讐する、というよりも、
その虎松がまた、後の世に、彼が死んだことを誰にも笑われないはずもなく。

きっと、こんな話、誰もよまないだろうな。
書いてて退屈だ、もう書きたくない。
これで最後にしようと、決めていた。
やっぱり、簡単に書いたほうが、ラクだし、読みやすい気がする。


とりあえず、虎松くんは、死んだ男の子の首を、笑えない。
かれが、そこにいるべき首だったのだから。
みんな、とりあえず、その首が虎松のものではないと知って、安心する。
だが、それが間違いだ。
死んだ男の子は、誰のものでもない、殺していいものでもない。
だから、殺した小野政次だけではなく、誰もが、彼の死の責を負う。


この時、彼らはみな、心を一つにして、この名もない男の子の死を、わらう。
死んだ男の子は、生き返らない。
だから、彼は、二人の証人ではない。
彼らはみな、男の子の死をわらう。
これは、男の子の首が、大バビロンとして殺された、という設定となる。

たとえ子供で、しかも男の子であっても、彼らはみな、心を一つにして、その子の死を喜ぶ。
一見すると、二人の証人の死の場面に見える。
しかし、彼は生き返らない。
人間の死、バビロンの死。

いずれは、彼らもみな、そのように死ぬ。
永遠に、生きながらえる人間など、いない。
死んだ男は、バビロンではなく、ただの人間である。
そうして、誰も、生き返らない。


さて、家族が薬を飲むといって声をかけてきたので、この辺で。
最後の記事だと思うんですが、どうでもよくなったんで、この辺で。
有料ブログも、書くかわからない。
なぜって、難しい話を簡単に書くのは、むずかしいから。


関連記事
Category: 未分類


コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する